神聖不可侵
今朝(11/13)、こんなニュースが目に入った。
私は、以下のコメントを加えてTwitterに紹介した。
これは観光客のモラルに訴えかける他ないな。辛いこと言うと、聖域として㏚してきた代償ともいえる。
それに付随して、こんな感想もつけ加えた。
聖域に無断で入ることが法的視点から不法侵入の構成要件を満たしているだろうか? という疑問が一つ。
さらにもう一つ。
私には「聖域」そのものへの疑念がある。昨今パワースポット巡りがブームだけれども、不可侵の領域の増加することが、(誰何を祀っているかにかかわらず)天皇制の護持につながる側面は否めないと思う。
と書いて投稿した。が、ちょっと飛躍しすぎた意見かなと思い、早々に引っこめた(削除した)。しかし、このMediumでは、もう少し考えを先に進めてみたい。
①久高島の財産ともいえる「聖域」を貶めたいわけではない。が、その立ち入り禁止区域が南城市の所有・管理であるなら、そこは公共としての「客体」があるので、住居侵入等の罪に問えないのではないか、と考えた。
だが、法律の森に分け入るのは危険だ。これ以上の深入りはしないでおこう。
②昨今、パワースポットがブームである。あの澄んだ泉は、あの巨大な岩は、あの鬱蒼としげった杜の、あの神社は霊験あらかたで神秘的な力があって、運気が開けて健康になって、とまあ結構毛だらけこの上なしではあるが、若い人をも魅了するスピリチュアルな風潮、鰯の頭ほどの信心もない私には、とんと理解不能である。
もちろん、人知の及ばぬ領域が自然界に存在するのではないか? と想像することを否定しているのではない。ヒトの知り得る領域なぞたかが知れている。この世界には科学の力ではどうすることもできない、未解決の謎がたくさん潜んでいる。
けれども、現世において「ここは人が立ち寄ってはならぬ地域ぞよ」が乱立するのは正直なところ薄気味悪い。其処に神聖が宿るというなら、それ相応の事象が現れて然るべきだし、その「奇蹟」なくしての聖域なぞ、信仰の対象とすべきではない。久高の「聖域」は伝承に基づくもので、急ごしらえの自己申告だとは疑わないが、島民の素朴な信仰心が観光資源として利用された側面は否定できない。
さらにそのことが天皇の権勢を後押しし、強化する力ともなり得るのではないかと私は懸念するのである。
日本国憲法・第1条に定められた、国民象徴としての天皇が、一連の皇位継承式典において、神秘性をまとい、庶民とは違う聖なる存在として復古しつつあるのではないか、と。
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
大日本帝国憲法・第3条の「天皇は、神聖であって、侵してはならない」と、昨今の「聖域」流行りが、私には無縁でないように思えてならない。
不可侵の、不可視の領域が増せば増すほど、禁忌(タブー)の意識もまた増加する。
一方で、政官財の三位一体による「聖域なき◯◯改革」によって、(たとえば、大学自治という“アジール”が)侵されている。
反面、人の営為と直結しない、観念的で不可侵の領域ばかりが、カジュアルに拡大しつつあるように思えてならない。
考えすぎだろうか?
国民の総意が、天皇のみの神格化に向かうのだけは、避けたいと思うからこそ。
ふう、こんな面倒くさいことは、やっぱりTwitterでは語り尽くせないや。Mediumでなくちゃね。 鰯 (Sardine) 2019/11/13