岩下 啓亮
Aug 16, 2024

死について歌うのはタブーか。

1972年。16歳の従兄弟(左)と10歳の私。熊本市から阿蘇まで歩いたときの写真。

従兄弟の葬儀が終わり、ついさっき火葬場から帰ってきた。

火葬場で私は、自分の作った歌の詞について考えを巡らしていた。死にまつわる詞の歌が数曲あるからだ。私は死を遊戯的に扱ったことはない。にもかかわらず以下のラインは、聞く人によっては不謹慎だと眉を顰めるだろう。

きみの骨なら おいらがもらった

すり潰して粉にして 海に撒いてやろう

焼けた骨を箸で骨壷に収めながら。係の方が手際よく砕いているのを眺めながら。

8月初日に入院中の従兄弟と話した。そのとき私はまた来るよといった。彼は軽く手を振った。こんなに早く亡くなるとは思いもよらなかった。8月13日に。

火葬場で彼の遺族や親戚と話した。私の知らない職種の話を聞くのは興味深かった。あーこの歳になっても知らないことがたくさんあるなあ。私はいろんなことを訊ねた。失礼なことを聞いたかもしれない。だけどみんな、ざっくばらんに話してくれた。従兄弟は朗らかで、人あたりがよかった。それぞれが持ちよった故人の面影が和やかな雰囲気を醸しだしていた。

その上で再び自問する。

従兄弟は私の歌を聞いて怒るだろうか。

立ってるだけなら死ね、と歌った私を。

非常識な歌をうたうもんじゃないと、たしなめるだろうか。

分からない。

だけど苦笑しながら、「ケイスケらしいや」と許すような気がする。

否定からは何も生まれない、と事あるごとにいっていた彼だから。

歌詞には必ず意味がなければならないの? いや、そんなことはない。ロックの歌詞なんてナンセンスでもいいんだよ、たとえばビートルズみたいに。

残された者たちは想像するしかない。まだ彼がそこにいるような、気配を感じながら。

空をかける4000マイル

風に撒いてたなびく煙となり

ぼくのすぐそばを漂いつづける

ぼくのすぐそばを ほらね

もちろん生死の厳粛を冒涜すべきではないし、

希死念慮の心境に陥った者に「死ね」のサインは禁物だと思う。

でも、だからといって、生と死の端境についてを歌えなくなるような昨今の風潮は、

おれ、やっぱり違うと思うんだよな。

鰯 (Sardine) 2024/08/16

追記:

そういえば、亡くなった従兄弟は病床で「お前を音楽の道に引きずりこんだことを反省している」といった。私は「いや、おれはあなたから教わらなくても、いずれはビートルズを発見して夢中になったと思う」といった。小学生高学年のころの私は、勉強から逃れたい一心でラジオにかじりついていたんだ。

岩下 啓亮
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Written by 岩下 啓亮

鰯です。熊本在住。イワシ(Sardine)とお呼びください。Mediumを日本語と英語の練習帖として活用しようと思う。Medium以外では、こちらを回遊しています。Twitter → @iwashi_dokuhaku はてなブログ『鰯の独白』→ kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

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