<池谷幸雄「誹謗中傷を書く人って戦ったことのない人。選手もそうだけど、審判も真剣だし、関わっている人みんな必死になってやっている。本気で戦ってたら絶対そんなこと書けない」>【サンスポ】8/1の記事より
このことについて、ずっと考えている。「戦い」とは何か、と。
辞書を引くと「戦い」は下の三つに分類されている。
① 戦争。戦闘。「ゲリラとの – 」
② 競争。試合。勝負。「ライバルとの – 」
③ 抗争。闘争。「貧困との – 」「労使の – 」
weblioより
どうやら池谷氏は、②のみを「戦い」と規定しているようだ。狭義の意味での「戦い」。なるほどその認識だと、一般市民の大半は「戦ったことがない人たち」だ。
が、
「戦ったこと」が、そんなに偉いことなのか。<選手も審判も真剣だし、関わっている人みんな必死になってやっている>のは分かる。しかし、それだと「戦う」権利を有するところの選ばれし者=選手と、競技に関係する者の枠から外れた人たちは、皆「戦わない人たち」になる。
五輪のような晴れ舞台でないかぎり、人一倍に努力した形跡が認められないかぎり、「戦った」ことにはならないというのか? 違うだろ。
もちろん、
誰かが、誰かを「誹謗中傷」することは良くないことだ。いや、悪いことだ。
だが、その「誹謗中傷」の内容がどんなものか、公表されないかぎり、私たちは知るよしもない。
池谷氏はいう、<「タラレバをよく書いたりする人いるけど、それができないから試合、それができないからオリンピック」(スポニチ8/1の記事より)>と。
この発言から推察するに、「あの場面であんな演技を挟むのはよくなかった」だの「あそこであの選手に不用意なパスを送ってなかったらリードしたのに」だのの、シロウトが好き勝手をぬかす「たられば」コメントは、本気で戦ってない人の無責任な感想であり、それを見聞きした選手たちは傷つくから誹謗中傷にあたる、と考えているようだ。
言わせてもらうと「なに甘ったれたこと言ってんだ」だ。選手には「私の美技をオレの頑張りを、見守ってください全国の皆さま」という自負があるだろうし、試合前後のセンシティヴな心理状態も理解できるけれど、一般大衆から「すごい、私たちには真似できない領域だ」と認知されてこそ「スポーツ観戦」は成り立つのであるから、アスリート(この特権的な呼称はなるべく使いたくないが)の人たちは、そのへん少しくらい省みたことあるんかいな、と疑いたくもなる。
なんだか発言の根底に、思いあがりが透けてみえるのだ。「私たちオレたちの努力は称賛されて当然、だって人一倍、汗かいてべそかいてきたからね。その頑張りが報われる、オリンピックの晴れ舞台に、ケチをつけられたら、そりゃ人間だもの腹たつよ」的な居直りが、選手たちの言葉の節々に見え隠れしているのだ。
追記:現役選手の悩みを代弁しているという体裁で、度重なる放言で物議を醸す為末大氏など、その典型である(フェンシングの太田雄貴氏などもそう。増長ぶりを隠さなくなった)。具体例は示さぬが。
そんな気持ちはさらさらない、とは言わせない。
ただね、「何くそッ今に見ておれ世間をアッと言わせてやる」と選手が不屈の闘志を発揮してみても、それにコクミン全員が感応するとはかぎらない。人はサーカスのみにて生くるものに非ず、だから、パン(食い扶持)の確保に懸命なんだ。それもまた一種の「戦い」なんじゃないか? 池谷さんには一般庶民の真剣さがまるで見えてないようだけど。
池谷幸雄氏といえば、かつて参院選に民主党の比例候補として出馬し、選挙カーの上で演説する代わりに何分間か倒立していたことを覚えている(過去を持ち出すのはフェアじゃないかもしれないし、これも誹謗中傷にあたる、のかな?)。あれもまた人一倍に頑張ったことのしるしであり、誇示だろう。でも、有権者にその頑張りは伝わらず、当選しなかった。そりゃあ政治に倒立持続能力は不要だからね。つまり努力は必ずしも報われるとは限らないんだよ。
それに、
私は、それ以上に「戦いはイヤだな」という気持ちがある。できれば、戦ったことのないまま一生を終えたい。無用な戦いはしたくない。切羽詰まっていちかばちか勝負するっきゃないみたいな窮地に自分を追い込みたくないんだ。それ、間違ってるかな?
私は(中島みゆきの「ファイト!」みたいに)一般庶民だって日々戦っているんだいと力説したいわけじゃない。五輪に選ばれる人たちに比べたら、私がのんべんだらりと生活していることは間違いない。戦ったことのない人である私は、戦ってナンボの人たちの気持ちが、残念だけど理解できない。
昨日も、馬術の障害物にだるまやこけしを飾るという愚劣な意匠を批判した。日本人の美的感覚はおかしいと書いた。それを読んだ大会関係者すなわち、障害物に世界じゅうの人たちが理解できるジャポニズムを加味しようと提案した人、それをデザインした人、置物を制作した人、そして馬術の日本代表たちは、私の意見をみたら傷つくかもしれないし、腹をたてるかもしれない。でも私は、おかしい、ヘンだ、幼稚だ、ゆるキャラみたいな意匠が日本文化の象徴だと思われたらかなわんと思ったし、そのことは表明しておくべきだと考えた。たとえ大会関係者が、これは誹謗中傷だと感じてしまおうと。
コロナ下である・なしに関わらず、今回の東京五輪について思うことは他にも多々ある。が、長くなるので、今日はここまで。
鰯 (Sardine) 2021/08/04
追記:どこからかの指示があったのかは知らないが、この記事を投稿した頃からインタビューを受けるアスリートたちの態度がガラッと変わった(もちろん、拙文の影響ではない)。一言でいえば、やたらと明るく楽しげにコメントするのである。まぁ言っている内容は相変わらずで、こんな私の頑張りを観てくれる子どもたちの励みになればいいな♪という、「人々に勇気と感動を与えたい」の変奏曲でしかないのだけれども。2021/08/05
【追記】
五輪について、(元)アスリート側からの反対意見の筆頭として、平尾剛氏の論考を外すわけにはいくまい。プレジデント誌2021/09/23 に掲載された記事を。
※ Mediumにすばらしい記事を発見した。一読をお勧めする。2021/08/06