パット・メセニーの相棒として活躍した、鍵盤奏者・作曲家のライル・メイズが亡くなった。享年66歳。
音楽カテゴリーとしてはジャズに属するがパット・メセニーと彼のグループはジャズにとどまらない裾野の広がりがあった。
私は80年代初めのころ、いわゆるフュージョンと呼ばれるジャンルを激しく嫌っており、パット・メセニー・グループもその代表格として敬遠していた。が、それは偏見だよと粘りづよく説得した友人のおかげで、P.M.G.を理解するようになった。
初期の諸作はどれも好きだが、ライル・メイズの魅力を知るに最適な音盤は、パットとの連名アルバム、『ウィチタ・フォールズ』(As Falls Wichita, so Falls Wichita Falls、1981年)であろう。
ナナ・ヴァスコンセロスのパーカッションとヴォーカリーズが存分に味わえる長尺のA面もいいが、「オーザック」ではじまるB面がやはり思い出ぶかい。
ライルの、雪に覆われた山脈の尾根のように鋭いタッチのアルペジオが清冽な印象を与える、視覚的なナンバーだ。私はこれを聞いて、このピアニストは只者じゃないなと改心したのです。
もう一つ紹介しよう。後に矢野顕子もカヴァーした牧歌的な『イッツ・フォー・ユー』。
彼の代名詞ともいえる、オーバーハイムの音色が美しい。ケーナのような高音、バスクラリネットのような低音は、しかしシンセサイザーならではの、他に代替えの効かない楽音だった(私が所有していたカーツェル製のシンセサイザーには「ライル」と名づけられたプリセットが含まれていた)。音色一つをとっても分かるように、ライルは真のクリエイターだったのだ。
この双頭アルバムを聞くたびに私は友人のアパートを思いだす。吉祥寺の外れにあって、私たちは朝まで語らい、お昼過ぎまで寝ていた。柔らかい陽射しの注ぐ、居心地のよい角部屋で、そこで聴いた数多の音楽は今も意識下に眠っており、私は時おりそれを取り出しては眺めてみる。
五反田の簡易保険ホールで初めてP.M.G.を観たときも、十数年前にブルーノート東京で観たときも(ライルの真後ろの席で、背中を向けた彼の指先がよく見えた)その友人と一緒だった。なまで観るグループの音楽には、いつも圧倒されたけれども、貧乏な学生ふたりがレコードばかり聞いて無為な時間を過ごした吉祥寺のアパートの記憶が、もっとも忘れがたい。あれは、豊穣だったのかもしれないな。
哲郎、ライル・メイズが亡くなったよ。 鰯 (Sardine) 2020/02/11