覚えているだろうか?
- 2020年が幕開けた1月3日に<アメリカ軍が、イラン革命防衛隊のソレイマーニー司令官をイラクのバグダッドにて空爆で殺害し、Twitterのトレンドには第三次世界大戦を指す“WWⅢ” “worldwar3”のハッシュタグが上位を占めた>ことを。
覚えているだろうか?
- <2019年11月22日に「原因不明のウイルス性肺炎」として最初の症例が確認されて以降、武漢市内から中国大陸に感染が拡がり、1月31日に世界保健機関(WHO)が「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態 (PHEIC)」を宣言した>ことを。
これを受け、世界の国々がパンデミックを確信した。にもかかわらず、日本国内は呑気だった。マスメディアは東京オリンピック開催に向けてのムードづくりに勤しんでいたし、政府はとくべつに対策を講じようとしなかった。
新型コロナウィルス感染症(covid-19)が国内にも深刻な影響を与えることが誰の目にもあきらかになった2月27日に、私はTwitterにこんな感想を漏らした。
いろんな意味で政府は、これを機会に「実験」しているような気がしてならない。
「どこまで不作為が通せるか」「どの時点で統制に転ずるか」を見極めている最中だと思う。社会実験というか、国民の生命を使った、文字通りの「実験」で。
こういうのも<根拠の曖昧な悲観論>と分類されるのかな? でも、どうしても国は「国民全員が満足する結果はだせない」と予断したうえで「推移を冷静に見守っている」ような気がしてならないのよ。うろたえてもいないし、罪悪感もないように見える。
そして3月2日には、こんなことも呟いている。
絆の時代の終焉。「一丸となって」の不可能。感染拡大の「空気」は否応なしの遠隔を要求する。
国際オリンピック委員会(IOC)が<新型コロナウイルスのパンデミックを受け、東京五輪を延期し、遅くとも2021年夏までに開催すると発表した>のが3月24日。
そして、安倍首相が緊急事態宣言を7都府県を対象に“発出”したのが4月7日である。
<僕は今、忘れたくない物事のリストをひとつ作っている(略)誰もがそれぞれのリストを作るべきだ>(『コロナの時代の僕ら』パオロ・ジョルダーノ 著 飯田亮介 訳 Hayakawa Books 刊 あとがきより)
ぼくもまた、作家というわけではないけれど、忘れないで覚えているために、ツイッターやブログに、記録し続けている。今だと、4年前の熊本地震のときに自分が何を思い、何と書いたかを復習している。比較してみると、震災のときよりも状況はもっとひどくなっていると感じる。逐一書き残しているから、それが分かるんだ。4月8日
今この記録を読み返してみると、あんな酷い目に遭ったにもかかわらず、私はなんと前向きで、建設的な意見を述べているんだろうと我ながら感心する。
から元気だったのかもしれないが、少なくとも最悪の時期は過ぎた、これからは復興するんだという意思と気概が漲っている。
翻って今はどうか。
明るい兆しはまったく見えない。
だけど、この出口の見つからない状況下において、楽観的な意見を口にするのは、罪ぶかいことだと私は思う。
政治家の職務とは何か。
<いつかまた、きっと、みんなが集まって笑顔で語り合える時がやってくる。>
安倍首相も与党議員も感染が終息したあとの明るい光景を夢想するばかりで、今ある問題から目を逸らしていないだろうか。政治家なら、困っている人を一人でも減らすことを真っ先に考えるべきだ。4月12日
さらに言うなら、ポスト・コロナは彼らの思い描く祝祭的光景にはならない。具体的には示さないが、収束した後の惨状は(このまま政治が手をこまねいているなら)既に確定している。安倍や彼奴の周辺で媚び諂う者たちが想像している、五輪開催に浮かれる翌年の日本というハッピーエンドは到来しないのだ。4月13日
ポスト・コロナの明るい将来を夢想する政権与党に、冷や水を浴びせるような暗い予想を私は抱いてしまう。
今年、出生率は激減する。
新型コロナ感染拡大の緊急事態下において、出産・育児・教育・雇用・補償の何れもが不安かつ困難な現状であるのに、満足な子育てが可能かどうか、想像してみるがいい。4月16日
上をツイートした後で、興味ぶかい記事を目にした。『コロナ・ピューリタリズムの概念』というタイトルで、<コロナ・ピューリタリズム(禁欲主義)がもたらしたまったく新しい“倫理観”は「他者に触れてはならない」である>ことを示している。はて、誰が書いたのだろうと確かめたら、斎藤環氏だった。
偉そうな感想を言うと、私は「似たようなことを考えているなあ」と思った。
コロナウィルスの蔓延するだろうこの世界において、私たちは否応なく他者との距離を意識させられる。いや、意識するだけでなく、身を寄せることを避け、身を遠ざけるよう心がけ、社会活動のあらゆる局面において他者と触れ合わないよう、これ相勤める。
人と人との親密さを測る尺度はむろん相互の距離である。肌と肌を密着することによって愛は育まれる。だが「三密」を禁じられた日常を過ごすことによって私たちは接近することも接触することも稀になる。よりあけすけにいうならセックスの機会は減少する。勿論、生殖のための性交の数も比例して減ることになるだろう。私がTwitterで控えめに「出生率」と記した根拠は、実にここにある。
だが考えてみれば、性愛に限らずとも人間の営みにおいて、喜怒哀楽は決まって複数の人同士が、いつもより接近した場面で起こるものだ。小田嶋隆氏が指摘しているように、ひな壇芸人がひしめき合わないバラエティ番組は、いかにも精彩を欠く。屈強な選りすぐりが競り合うスポーツにいたっては言うまでもない。野球の試合で、もっとも白熱するのはクロスプレーの瞬間だ。ラグビーのタックル、相撲の立ち合い、陸上競技のラストスパートも然り。肉体と肉体の衝突こそが大衆を酔わせる最大の要素である。
大勢の人がワサワサと集まることで、街に活気が生まれ、経済も活性化する。誰もがそう考え、祭りを興し、イヴェントを催す。それは必ずしも間違いではない。私が為政者だとしたら、同じようなことを夢み、企てるだろう。沢山の喜ぶ顔がみたい。“良かれ”と思う善意の先に五輪開催があるのかもしれない。
しかし、世界は「人が接近してはならないモード」に突入してしまった。勿論それは限定つきで、未来永劫ではない。人間は離ればなれの状態に耐えられない。それでも今は我慢する時だ、が国際社会における目下の共通理解である。
「一丸となって」「一致団結して」などのスローガンは、高揚感の最中でこそ効力を発揮する。だが、“social distance”(社会的距離)を保たざるを得ない時節において「絆を結ぶ」は困難きわまりない。肩を組むことすら憚られるという状況だのに如何して互いの気持ちを通わせられよう? 大衆は、奮い立つ機会を奪われたのだ。
そんな時にオリンピック開催期日の話を持ち出されても誰も耳を傾けないし、困惑するばかりだ。さらに旅行・飲食・イヴェントを喚起する目的の、『Go To キャンペーン』に至っては、私の場合、ふざけるのも大概にしろとの憤りが先に立つ。
先のnoteで斎藤環氏が予想するように<祝祭的な反動が訪れるであろう>ことは疑いようもない。80年代に、AIDSが世界中で流行した後で「セカンド・サマー・オヴ・ラヴ」のムーヴメントが隆盛したように。
けれども、今回の「コロナ禍」が残すであろう爪痕は、おそらく想像を絶するものだ。政治への不信は、行政への、医療への、教育への不信につながり、修復には長い歳月が必要になるだろう。さらに国家という概念も、根こそぎ覆された感がある。ウィルスは国境をものともせず、世界中を覆い尽くした。いわば世界中が平等に感染した格好である。が、よもや各国の政府が打ちだす対策の善し悪しで、重症者や死者数にこれほどの差がつくとは想像もつかなかった。まったくコロナは国家の顔を正直に映しだす鏡だ。厄災は普段は穏和そうにみえる本邦の、粗暴な形相をもあからさまにした。
そしてその貌の醜悪さは、ひとえに政権与党のみならず、国民そのものにも当てはまる。以下ふたつのニュースを紹介するが、リンクはせず抜き書きにとどめる。
- 徳島県飯泉知事は24日の定例記者会見で、新型コロナウイルスの感染拡大に絡み、県外ナンバーの車に「暴言やあおり運転、投石、傷つける」といった差別的行為が発生していると指摘、行為をしないよう呼び掛けた。
- 捜査関係者によると、過去の複数回の投石には、少年5人を含む男女10人ほどが関わっていた。逮捕された5人はは3月25日未明、岐阜市河渡橋の下にいたWさんらに石を投げ、うち会社員(19)ら3人が逃げるWさんを同市寺田の路上まで追い掛け、暴行を加えた。
投石?
一体どこの蛮族だと言いたくなるが、これはまぎれもなく“日本”の出来事である。新型コロナウィルスに脅かされた本邦は、その粗暴な実態を白日の元に晒しはじめた。網野善彦は中世の投石の図に、日本の歴史(学)が伏せてきた“悪党”の存在を見出したが、2020年の投石は、権威に反抗するでもなく自らの存在を示すためでもなく、ただ面白半分に他所者を排斥し、弱者をいたぶり殺める為だけの無意味な暴力でしかない。それもこれも、自分と身の周りの「安心・安全」にしか興味がなく、わが国なりわが県なりに境界線を引くことで事足れりとする、狭量で矮小な「国民性」によるものである。
こんな野蛮な国に“来たい”と思う、奇特なインバウンドが今いるかどうか、考えてみてほしい。
今、世界は静かに発狂しつつある。いや、まともな判断を下す国や地域も多いから一概には言えまい。が、日本語圏内に渦を巻き、滞る、澱のような他者排斥の感情は、まさに狂気と呼ぶにふさわしい。はたして君は、この渦中において正気を保っていられるだろうか。君は「他の国と比べたら、まだまだ日本は清潔」だと思っているかもしれない。が、それは日本人の心性に深く根を下ろす、「穢れ」の意識の裏がえしに他ならない。共同体に異常をもたらす者や物事を排斥し、浄化することで共同体を維持することに努める。そのやり方はもはや通用しない。
なぜなら、
世界中で一番清潔な国は日本だと信じていたとしても、実際に新型コロナの封じこめに成功しつつある国は韓国であり、台湾であり、そして中国であるからだ。周辺国からしてみれば、今の日本は不浄の地であるかもしれないのだ。つまらぬ自尊心に凝り固まっている場合ではない。
穢れているのは周りではなく、もしかしたら、自分の方かもしれないのだから。
今なお進化し続けるコロナウィルスを完全に遮断する術はないに等しい。せいぜい自宅に籠り感染の拡大を鈍らすしか、医療技術を持たない一般人にできることはない(だからこそ「いたずらに批判をせず自分のやるべきことを行おう」式の呼びかけがいかに虚しく響くか、表現者なら想像しなければならない)。
これもまた<根拠の曖昧な悲観論>なのかもしれないが、私は、この期に及んでもポスト・コロナにバラ色の未来を思い描くような、温い言説を一切信用しない。
ポスト・コロナの幻想はしばらくお預けだ。ふたたび誰かと肩を寄せあい、笑いながら語りあえる日は近い将来きっと訪れる。が、そのときまで私たちは距離を保ちながら、社会を覆う不安の要素を剥ぎとるべく、おかしいことはおかしいと、気づいたことを指摘し続けることだ。
そして。
こんな非常時には悪魔のような言説が蔓延るものだ。他人を羨む負の感情を巧みに揺さぶり、アイツは狡いと非難し、誘導することで権勢の拡大を目論む郎党が現れるものだ。が、そんな見せかけの強さには絶対に惑わされるな。尊大さは強さではない。
今の私は殊更に誰かとの接近や触れ合いを求めないけど、世界から愛という愛が喪失してしまったら、やはり無情感が漂うはずだ。今は他の人権を尊重し、思いやる精神を養う時期だと思う。君の裡にある愛情を毀さず、大切に育ててほしい。
鰯 (Sardine) 2020/04/26