そりゃあ私だって紅白歌合戦なんて観ないが勝ちだと思いますよ。その方が精神安定上健やかだとも思ってます。
①好みの音楽ではないが、氷川きよしと MISIAが圧巻だったと思いました。歌唱力はもとより、ダイバシティの時代をみごとに表出しており、紅と白のへだたりから自由だったという意味においても(12月31日の投稿)
②国民的番組への是非が収まらないツイッターだが、あの女性が紅、男性が白に分かれての歌合戦という基本設定は(ロックは死んだ論と同じく)80年代ごろには既に構造劣化を指摘されていなかったか? あとは対案が見当たらず、止めようにもやめられないまま、惰性で続いているだけなのかもしれない。が、
③ぼくは長らく意識的に視ないようにしていたが、今は音楽がどのように茶の間へ浸透していくのかのドキュメントとして観ている。どれだけ強固に見える容れ物にも裂け目はある。入念かつ組織的に編まれた個の埋没と全体への帰依という枠を、ごくたまに突き破る瞬間があるから生番組は面白い、と思った。
④で、あの圧倒的な多幸感(とぼくは感じた)に、どのような説明をすれば十分だろう? メッセージは提示した側よりも受け取った側がそれぞれに解読すればいい、余計なガイドは不要だと思う。とはいえ、<パラダイス・ガラージとかも知らなそう笑>などとマウントするのも余計なお世話だと思うけど。
⑤社会の閉塞感を突き破る方法は無数にある。その“やり方”をくさすよりも自分なりの手段を見出し、表明し、実行すること。瞬きかもしれないが音楽の勝利を目撃できてよかった、とぼくは思います。(②〜⑤までは1月3日の投稿)
この連投をしたのには理由があって。ある社会学者が、「MISIAのパフォーマンスはレインボーフラッグを収奪したように思えた」、「公共放送として、その旗が掲げられた意味をアナウンスすべきではなかったか」と意見したことに対しての、個人的な感想である。この社会学者の意見には批判も多く寄せられたが、気になったのは「ろくにLGBTQの歴史と現状も知らないくせに」的な非難が少なくなかったことだ。
LGBTQの現状をあまねく世に伝えるためにどんな方法がもっとも有効かは、それこそ人の数だけある(それは性差の問題に限らず、だけども)。より広範に知ってもらうためにはどうしたらよいか、かの社会学者氏は誠実に問題提起していたと思うのだ。それに対して「なんにも分かっちゃいねえ」とanti-fa/haがマッチョな口調で吊るしあげることに如何なる効果があるというのだろう。逆効果だと思う。大半の「知らないでいる一般」が、当事者たちの表明や獲得した権利の経緯を知ることもないまま、厄介そうだなと敬遠する結果になりかねない。言い方の問題かよ? と気色ばむようなら、言い方の問題だよ、と返すしかないような。それは違うだろ、という思いが私にはあった。
“知らなければ済む”話は無数にあるのだ。けど、なんとかして知らしめたい。知らしめるべきである。とくに紅白歌合戦なんて時代錯誤な長寿番組をのほほんと観ているような層に。百人に一人、いや千人に一人でもいい、あれ? 今のは何だったんだろうという疑問や違和感、あるいは疎外感(私にはよく理解できない領域のことが今くり広げられているな)を感じとらせることができるのなら、本邦国民の約3分の1が視聴している生番組は、何らかのメッセージを発信できる千載一遇のチャンスではあるまいか? 表現者たるもの機会は最大限に利用すべきだと私は思うのである。
じつは妻子と観る紅白、私には決して楽しいものではなかった。秋元康がプロデュースする⊿グループの「不協和音」という曲の、“てち”というリーダー格のパフォーマンスは、私には痛々しくて観ていられなかったし、米津玄師が嵐に提供した「カイト」という曲の「各方面からの要求を完璧に満たした感」には息苦しさを覚えたし、ラッドウィンプスの背後で大合唱隊が現れる演出にも気圧されるというより全体主義の萌芽を感じたし、そりゃあ居心地悪いことこの上なかった。まさに観ないが勝ち・心健やかなんである。
だけど、
氷川きよしの吹っ切れかたとMISIAの古典的(私はシェールの“テイクミーホーム”を連想した)ともいえる悦びの表現は、それまで番組に横溢していた閉塞感を一気に払拭する開放感に満ち溢れていた。私は素直に、良かったと安堵した。メジャーなアーティストにはメジャーシーンにおける表現の在り方がある。二人はその鍛えあげられた歌唱の力で、縮こまった空間をグッと押し広げてくれた。
だから、“80年代のサブカルを担ったアーティストが「個」を追求するあまり、日本のポピュラー文化から社会参加への意識が著しく減退してしまった”という論旨を常日ごろ展開する方が、<紅白、もう日本は本当に国力が無くなっているんだなあという感想しかない。そのことについて自分は特に何の感慨もないけど>とシニカルな感想をもらしていたが、それもまたずいぶん「個」を優先した態度だなあと鼻白むばかりだし、また、
<自分ちの子供がさ、大学卒業して「俺やっぱミュージシャンになる」つって、7年バンド活動して全然売れなかったら親としては「7年もやったよ? もう30歳目前だよ? 諦めなよ」って言うよな>という猿股くさい喩えで安倍晋三の任期7年をくさす菅野(bot)の放言に、私が過剰反応した理由も、今ようやく分かった。
それはかつて、30代半ばに亡き父親から言われた言葉とそっくりだったからだ。
20何年か前に帰省して、家族と紅白を観ていた。父親は画面に出たあるアーティスト(確かELTだったと思う)を指して、「音楽というのは、こういう若い人たちが歌って演奏するものじゃないのか? お前はもう年齢を過ぎた。音楽活動いい加減やめたらどうだ」と言った(もちろん親からヤメロと言われてハイそうですかとやめられるもんじゃあないですよ)。
大晦日の夜だのに、私は血相を変えて家を飛び出した。それから10年くらい、紅白を観なかった。わが子が「コーハク観たい」と言った日まで。鰯 (Sardine) 2020/01/03