GLAYの最新アルバム“No Democracy”、およびラストナンバー「元号」について
面倒くさい“ロックおじさん”の私にとってGLAYは縁遠いバンドだった。アルバムを通して聞いたことはむろんなく、有名なシングルヒットも、まともに聴いたことはなかった。早い話が、大物J-Popの典型だとして、敬遠していた。
が、
この記事を読んだのち、10月28日にリリースされた“No Democracy”を聴いて、今までの認識が誤っていたことに気づいた。先に謝っておく、すみません。
このアルバムは相当に気合の入った、充実した作品が収録されている。メロディのセンスや選ぶ言葉が、私の苦手な要素だったが、それもさほど気にならない。入念に施されたアレンジだが、やり過ぎた部分はなく、むしろ引き締まった印象もある。「氷の翼」や「誰もが特別だった頃」のように従来型のロマンチックな曲もあるけれど、リズムの強調により、感傷に陥らないように工夫されている。
そして「戦禍の子」。これはLUNA SEAのSUGIZOの行動に触発されたTAKUROが、難民のことについてを書いたものだというが、同時に今日の日本社会をも逆照射している(ように私には聞こえる)。
愛という字の真ん中に
心を置いた者が言う
再三くり返される愛への疑義は、彼らが愛することの“動詞”を追求してきたからこそ、書ける歌詞だと思う。「こころのノート」に顕著な、国家主導&推進型の教育による「心」の固着化によって、あべこべに心を動かせなくなった本邦の“民”へ問いかけているようだ。愛という字の真ん中で、怖い・辛い・酷い思いをしているなら、大人になって、ちゃんと見つめて・守って・愛してあげるんだよ、と。
こういう歌を正しく“メッセージソング”と言うのではないかな。
先を急ごう。U2みたいなカッティングが映える快速ビート“愁いのprisoner”に続いて、ラストナンバー「元号」がさりげなく始まる。
THE YELLOW MONKEY の“JAM”を思わせる3連のリズムと曲調だけど、歌詞はより直裁だ。
民衆(たみ)が口にする絆はどれだけ強いというのだろう? 弱い者達を見捨てた時の苦味は今も淀みのようだ 心から憎むものそのすべてをあなたが取り去ったとしても その後でまた僕らはどこからか弱者を探しだし弾く
元号にポジティブな意味合いを含ませているとも解釈できる点において、この歌詞はむしろ天皇制反対の立場からの厳しい批判にさらされるかもしれない。が、今の日本の音楽業界に、このような歌詞を書ける“アーティスト”がはたしてどれほどいるだろう。単に「弱者に寄り添う」のではなく「自分が・弱者を・見捨てた側にいた」と省みることのできる表現者がメジャーシーンにどれくらいいただろう?
ヒノマルを称えてどこが悪いの? と開き直ったり、ラグビー世界選手権のテーマソングに「兵、走る」と題してしまったりするビックネームたちの浅はかさに辟易する私は、GLAYが“No Democracy”で示してくれた、愚直にして清々しい生真面目さに敬意を表したい。そして今なおアリーナを満杯にできる彼らが、ストレートなプロテストソングを発表したことによって、「ロックに政治を持ち込むなw」式の戯言に代表される閉塞した言論空間に風穴を開けてくれたことを感謝したい。J-Popぎらいの、へそまがりな私にとって、これは最大限の賛辞である。 鰯 (Sardine) 2019/11/03
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