私は滅多にテレビを観ないのだけど、その主な理由は、放送内容と無関係に挿入される音楽(サウンドバイトと呼ばれる意味を補強する手法は、より問題である)や、お笑い芸人の過度な起用はもちろんだが、とくにワイドショーに顕著な、スタジオのセットの派手な色使いが、苦手というより嫌いであるからだ。
これはとくに地上波と呼ばれるデジタル放送が普及するに従ってエスカレートした感がある。とにかく過剰なのである。私からすれば悪趣味だとしか思えない。しばらく観ているうちに目がチカチカしてくる。さらに、司会者もゲストも、セットの色に埋もれないような服装を着ているから始末に負えない。ある日のNHKの番組で、私がまともだと思える服装の出演者は、イノッチ(井ノ原快彦)だけだった。
どうしてこんなけばけばしい色使いになってしまったのだろう。慶應大学の教授である堀茂樹さんは私の素朴な疑問にこう答えた。
同感ではあるですが、配色はたいてい視聴者大半の好みの反映かと。色彩のセンスは文化環境に大きく依存するし、悪趣味の方が親しまれ易いというケースもありそうです。公衆の趣味の洗練は難題ですが、えげつなさに居直るようなのは淘汰したいですね。
Twitterの長所は直ぐにレスポンスが返ってくるところで、さすが先生だと唸ってしまった。確かに配色は視聴者大半の好みの反映かもしれない。セットの色調を派手にしたほうが視聴率も上向きになるといったデータが存在するのかもしれない。しかし、公共の電波を使って情報を伝える立場にあるテレビ局が、こうすれば一般大衆が喜ぶだろうとの判断により、どぎつい色を濫用することに、私はどうしても頷けないでいる。堀氏の返信が来る前に、私はこのようにつぶやいている。
派手にすれば、煽情的にすれば目を惹くとの考えは錯覚だ。感性がマヒしてしまっている、放つ側も観る側も。悪趣味に慣らされてはいけない。
趣味の洗練は、なるほど難題であり、「センスが良いもの」をエタラジストが勧めても、大衆がそれを手にするとは限らない。むしろ趣味の良いデザインにそっぽを向く場合だってあり得る。この領域について深く語るほどの材料を私は持ちあわせていないが、〈へっ気取ってやがる〉的な感情を庶民が抱えていることは確かだ。高踏なセンスを押しつけても視聴者が踊るとは限らない。その経験則から、テレビ番組の色使いが次第に「きたなく」なっていったのではないかと私は推測するのである。
だけど、今朝がた Dulles N. MANPYO さん(Mediumにも米日文化の相関について興味深い論考を多く語ってらっしゃる)が紹介していた、『夢で逢いましょう』の映像を観ると、やはり最近のテレビ番組は趣味が悪い!と言いきってしまいたくなる。
この洗練された導入部の意匠はおなじ日本と(今のダイソーの店内のようなどぎつさ、あのような色に囲まれていましたら頭が変になってしまいます)はおもえない。ついこの前のことであるのに。
同感。これほど粋な、洒落た番組が放送されるのだったら、私もテレビに齧りつくだろう。これは断じてノスタルジーではない。(だってこれ、私が生まれた頃の番組だもの。観た記憶がない。)
昨今の「テレビ離れ」を食い止めるためには、放送局が大人の鑑賞に耐えうる番組を送りだすことに尽きる。送る側が観る側を見くびらず、真に知的で、気品に満ちた、教養あふれる番組を制作すればいい。予算だってそんなにかからないはずだ、「悪趣味なゴージャス」をやめればいいだけの話だから。
Mediumは余計なデザインがない。シンプルな仕様だからこそ趣味のいい人たちが集まるのだと思う。この快適な状態を今後も維持してほしいと願う。(5月23日)