福岡史朗2022年のアルバム『4』は、なかなかシブい作品だ。前作『プリズム』がカラフルな万華鏡みたいな音色だったから余計にそう思う。福岡自身がミキシングからマスタリングまで、手がけているせいもあるだろうが、全体にくぐもった、単色のローファイな音響が支配している。
だからといって退屈なわけではない。
『プリズム』はアコースティックギターが主体のアレンジだったが、今回のアンサンブルの主役はピアノ。ギターは要所要所を締めるだけで、楽曲の真ん中に据えられているのは、福岡の弾く朴訥で、飾りのないピアノの響きだ。
ピアノ主体になった理由は、彼自身が説明しているから重複は避けるが、ギンジンレコードスタジオそなえつけの、ゴトゴトと鳴るアップライトピアノが、どの曲にも使われていることが、『4』最大の特徴だ。
ピアノは私も弾ける。最近はあまり弾く機会がないから、ずいぶんヘタになったが、それでも世間一般の水準でみれば、弾ける部類に入ると思う。だから、福岡がピアノをどうやって弾いているのかは、だいたい理解っているつもりだ。
その上でいう。
こんなピアノ、誰も弾けない。
難しいことはなにもしていない。音符は平明に並んでいる。運指のややこしい部分はどこにもない。努力さえすれば、誰にでも弾ける程度の難しさだ。
でも、たぶん福岡のような響きは誰にも出せない。
古今東西、ロックのレジェンドたちは、ピアノを弾きながら、数々の名曲を生み出してきた。ポールもジョンも、ピートもレイも、ピアノをポロポロとまさぐりながら、歌をうたい、楽曲を練りあげてきた。
福岡の弾くピアノは、彼らにちょっと似たところがある。ギタリストの弾くピアノ。技巧は少ない。たどたどしい。流暢ではない。お世辞にも巧いとはいえない。だけど、ピアニストには決して弾けない類のピアノ。
ピアニストはふつう、和音と和音をなるだけスムーズにつなごうとする。アカデミックな教育を受けた者ならなおさら、和声学や対位法で培った常道をたどる。そういうふうに躾けられている。禁則とされる平行移動を自然と避ける。そうすることで、しろうとくささを回避する。結果、ピアニストの伴奏は、じつに滑らかに聞こえる。
もちろん福岡のピアノ演奏に、工夫がないわけではない。彼なりに、いかに楽想に見合った響きにするかを模索しているのがわかる。それはピアニストの「適当な」アレンジよりも、真摯に考えぬかれている。ただ、その指のたどりかたが、一般のピアニストとはいくぶん違うだけだ。
そこに私は、福岡の非凡さを感じる。
彼には、お手本がない。それは先にあげたような、ロックやソウルの先達が示したスタイルがモデルにはなっている。けれども真似ではない。教則本をなぞったり楽譜どおりに弾いてみたりといった、人並みの努力はしない。ならば怠惰か?
いや違う。ただ、歌いながら弾いてみて、いちばん曲にあった響きを掴むだけだ。それはいちばん非効率で、合理性に乏しいやり方だ。しかし、いったん実を結んだら、それはかけがえのない、唯一無二の響きになる。誰にも真似できない境地。
教科書に従わない生き方は、しんどい。だが、それを貫いた先には、誰にも到達し得ない地平がある。福岡史朗は、先が見えないところへ、あえて進む。『4』の暗さ(とあえていう)、モノトーンで、閉じた感じは、万人向きではないかもしれない。しかし、暗中模索のその先に、かすかにでも光が見えたなら、彼は躊躇わずそこへ向かっていくだろう。
旅は終わらない。まだまだ続く。自己模倣に陥らないかぎり、音楽の泉は枯れない。そんなことを思いながら私は『4』を聞いている。
付記)小難しくなく、むしろ親しみやすい音楽であるのはいつもと変わらない。が、今回は歌詞がずいぶんアグレッシヴで本質的な警句に満ちていると感じる(たとえば5曲めの「おはよう」なんか)。聞く人は、このシリアスさを正面から受けとめられるだろうか。福岡史朗がなにを言わんとしているか、読み取ってほしい。鰯 (Sardine) 2023/05/04