私はかねがね、世の男性が、自分の配偶者のことを、「嫁」と呼ぶようになった昨今の傾向を危惧している。とても粗雑で、人格を軽視した呼び方だと思うのだ。
先日、こんな記事を引用したツイートを、タイムラインに見かけた。
いつからだったか、自分の妻を「嫁」と呼ぶ、主に関西系の笑い芸人がTVに登場し始めた頃からずっと違和感を感じていた。(略)
「嫁」は息子の嫁、義理の娘という認識しかないので、身近な人が「うちの嫁がー」と話すので、てっきり義理の娘の事なのかと思ったら自分の奥さんの事だったって事がたまーにある。
TVのバラエティやお笑い番組の悪影響なんだよね。
(“悶絶うさちゃん”さんのツイートより)
以下、何往復かやりとりした。
【鰯】
私も、若い既婚者の男性が、「ウチの嫁」と言うのに、とても違和感があります。いや、間違っている、と思います。パートナー・人生の伴侶を、嫁と呼ぶなんて、私にはできません。
【悶絶うさちゃん】
ああ、やっぱりそうですよね。
若い人が自分の妻を「嫁」って言ってるのを聞くと、何となくダメな奴という認識を持ってしまいます。
違うかもしれませんが、勝手に関西のお笑い芸人の影響を受けてるのかしらんと邪推してしまいます。
【鰯】
数年前、一流大卒で優秀だと紹介された男性が「ウチの嫁がー」と屈託なく喋るので、私は〈ダメだコイツ〉と勝手に見切りをつけましたが、そのとき、彼みたいに保守性を内面化した若者が、ずいぶん増えていることに気づいたのです。
【悶絶うさちゃん】
なるほど。
鰯さんは、私の思う「単に言葉に無頓着、メディア等に簡単に影響を受けやすい人」なだけではなく、一歩進めた観点で見ているのですね。
こういう言動の人に、夫婦別姓や同性婚についてどういう見解を持っているのか俄然興味が湧いてきました。
【鰯】
いや、「言葉に無頓着でメディア等に簡単に影響を受けやすい」でほぼ説明がつきますよ。維新の会を支持する人なんか、絶対に「嫁率」が高いと思いますもん。
【悶絶うさちゃん】
確かに維新は「嫁率」高そうです。
そして、いつの間にか自分が保守性が内面化してしまっているのに気づけてないって恐ろしい。
そういう人は、自分が右に寄ってるのに、中央にいる人を左に寄ってるように見えているんでしょうね。
以上が、悶絶うさちゃんさんと昨晩交わしたやりとりである(しかし、改めてタイプしてみると、インパクト絶大なアカウント名だね)。
テレビといえば、昔むかしチラッと観たトレンディードラマ(死語)で、山口智子が野際陽子のお義母さまに「嫁、嫁って呼ばないでください!」と歯向かい、間に入った高嶋弟の夫がオロオロする場面が忘れられない。
それを観て私は、時代が(良い方向へ)変わりつつあるなあ、と素朴な感想を抱いたものだ。なんか、本邦の旧弊な家族観が、緩やかに解体しつつあるような気がしていたのだ(錯覚だったけど)。
私は、自分のことを(主に妻側の知人から)旦那さん、と呼ばれるのも苦手だった。旦ツクと、面と向かって呼ばれたときには、さすがに失笑したけども。
既婚女性から、「うちの主人は」と言われるのもドギマギしてしまう。こちらも「お宅の御主人は」と、返さなくてはならなくなるから。話し相手の配偶者のことを何と呼ぶかは、意外と気を使う。
自分のパートナーのことを何と呼ぶかは、さらに難しい。ウチのが、とか、カミさんが、とか呼ぶのは、あまり好きではない。うちの奥さんが、と言うのも語弊がある。奥さんの「奥」の字に引っかかってしまうのだ。年配の男性が「うちのワイフがね」と呼ぶのも苦手だったな。
私の場合は、人と話す場合、簡潔に妻と呼んでいた。それがもっともフラットで、いやみがないと思ったからだ。
8年前、郷里の熊本に帰ってきてからだ。「嫁」の復権を感じたのは。
妻はよく、「お嫁さん」と呼ばれ、そのたび困惑していた。埼玉に住んでいた頃は決して言われなかった呼び方だ。
私は、妻が「お嫁さん」と呼ばれるたびに、その呼び方やめていただけませんかと、やんわりと説いた。が、相手は大抵キョトンとしていた。私なにか悪いことしましたか、という表情だった。
【追記】悶絶うさちゃんさんは、記事を読んで、こんな感想を送ってくれた。
配偶者の呼び方は色々あって、人によっても受け取り方が違うのでしょう。
でも私は、「嫁」という言葉に、個人対個人ではなく、婚姻による家と家のつながりを読み取ってしまいます。
今の世の中、配偶者は自分で選び取っている人が大半のはず。その相手を「嫁」というのは奇妙な事だと思います。
私の違和感は、まさにこのことだった。相互の意思で選んだパートナーを「嫁」と呼ばれると、妻のパーソナリティを無視されたように感じたのである(追記/了)。
そして私自身も、冒頭で紹介した「ウチの嫁が〜」に躓いた。件のエリート青年のみならず、熊本の既婚男性が自分の配偶者を何と呼ぶか、注意深く観察し、聞いてみた結果、殆どが「嫁」と呼んでいた。
とくに若い男性の「嫁率」が多いことに愕然とした。みんな「うちの嫁が〜」を悪びれもせず口にしている。「嫁」につきまとう因習のニュアンスを、まるで気にしていないようだ。
私は端的に、保守性の内面化と結論づけた。第一次安倍内閣時の教育基本法「改正」の頃から長い時を経て、日本の若者はナチュラルかつ無自覚に、保守性を身につけている。自分が集団に属することに抵抗を持たない。私たちは家庭や地域に育まれており、感謝こそすれ、逆らう気持ちはない、といったふうな。そして、その集団への帰属意識は、容易に国家観へと展転する。私たちの美しい国ニッポンというおめでたいイメージを、疑いもなく抱いている、と。
私が、保守性の内面化と指摘するゆえんだが、「嫁」問題は、それだけには収まらない、ある種のまがまがしさを感じてならない。フランクさの表れのように聞こえるけれども、内面の荒みが露呈しているようにも思える。要するに、とても粗暴な語感なのだ。「うちの嫁が」には、公の部分での突出やはみ出しを避ける一方で、プライベートな領域では自分を抑制しませんよ的な、わがままさの無邪気な肯定が見てとれる。その延長線上にDV、ドメスティックヴァイオレンスの気配を感じてしまう私は、極端すぎるだろうか。
長くなった。「嫁」につきまとう違和感の正体をつきとめるにはいたらなかったが、問題の端緒を掴んだ気はする。今回は参考資料にあたらず、自分の感想のみを列記したが、今後あらたな課題として意識的に調べてみようと考えている。
鰯 (Sardine) 2021/04/27