人のセンスを笑うな
20代の半ばまで、私はかなりセンスがよい者だと自惚れていた。次に何が流行るかを察知できたし、着ているものにもこだわりがあった。それがテレビや雑誌(あるいはそれらに影響された友人)からの宣伝による教育や誘導の成果だと気づいたのは、ずいぶん後になってからである。
この年齢になって、わが道を行くつもりでいても、トレンドの推移を気にしてしまう私。流行りの話題に飛びのってしまう軽薄で浅はかなところが未だにある。ただ若い頃と違うのは、自惚れが減ったことだろうか。自分のチョイスや周縁のみをセンスが良いと錯覚しないよう、自制するようになった(ま、この認識も自惚れの変奏曲かもしれないが)。
自分が誰よりも優れているという思いこみに裏づけされた自信は表現者に不可欠な要素だが、世に問うた作品なり意匠なりを、ここが優れていますと説明してしまうのは野暮なふるまいである。仲間うちでの褒めあいも同様で、センスの良し悪しは第三者が決めるものだ。自己宣伝が必須の時代とはいえ、手前褒めは見苦しい。
君が素晴らしいと思っているほど、その意匠は素晴らしくはない。センスが良すぎるのも考えものだ。カッコよすぎるがゆえ訴求力に欠けると見る者も少なくない。
ましてや他者のセンスを、趣味が悪いと嗤ったり、ださいと断じたりするのは、それこそ“格好悪”い。その仲間うちだけで盛り上がる体質を改善しないかぎり、君たちの切望する、より多くからの理解は得られない。
それは屈折した“特権意識”ではないか?
私は、君たちの発信センスに辟易としている。もう少し、うまくやれ。人を教え導びこうとするな。いやしくもデモクラシーを標榜しているのなら。
鰯 (Sardine) 2020/06/22