岩下 啓亮
Jul 16, 2021

たぶん、もう二度と聞かないだろう

と、2013年に書くほど、私は小山田圭吾の才能を買っていた。1997年にリリースの『ファンタズマ』は、よく聞いた。前身の小沢健二とのデュオは、剽窃感もあってまるで興味が持てなかったが、続くコーネリアスはかなり好きだった。音響処理の面では影響を受けたといってもいい。

だけど、もう聞けない。

数年前たまさか見た、ロッキンオン・ジャパンとクイック・ジャパンのインタビュー記事を基にしたブログ記事を読んで以来、私は小山田圭吾の作った音楽を一度も聞いていない(リンクは貼らない)。

【追記】小山田圭吾の謝罪文のみリンクを載せる。ここで私が気になるのは「クリエイター」の頻用だ。

https://twitter.com/corneliusjapan/status/1415968059580293121?s=21

同じようなことはライ(Rhye)にも言える。マイク・ミロシュによる音楽プロジェクトの音楽を、私は一種の精神安定剤として、就寝の前なんかに、一時期ひんぱんに聴いていた。静謐な音響に、心癒される感じがしていた。

だが、ミロシュが未成年の元妻から告発された記事を読み、一気に聴く気がしなくなった。真偽は分からない。ミロシュは否定しているが、告発が事実だとすれば、ライの儚げで哀しみを含んだような音楽は、人格と尊厳を蔑ろにした搾取の上に成り立っていることになる。すると耳に心地よく響くオブスキュアなイメージも台無しだ。その裏に、犠牲者の悲鳴が聞こえるようで。

以後、私はライを聞かない。聞きたいとも思わない。コーネリアス同様に。

イノセントに過ぎるだろうか?

よく「創作物と創作者は別物だ、いかに創作者が下劣であろうと、優れた創作物の値打は些かも減ずるものではない」という論法をみかける。さよう〈偉大な作品を作った者=人格者〉という相等は成り立たない。過去の偉大な才能の人格がどうだったか、我々には知る由もない。同時代の人々からは眉根を顰められるような存在だったが作品そのものの素晴らしさは揺るぎようがない、みたいなケースは多々あるだろう。が、マエストロがいかに芸術の崇高を唱えようと、あんな奴の作品は二度と聴きたかないね、と拒絶する権利も庶民にはあるのだ。

私が、フィル・スペクターの訃報に接して何の感興も持ちえなかったことも、彼が<2003年2月、自宅で女優を射殺した容疑で逮捕され、禁固19年の有罪判決を受け、カリフォルニア州立刑務所の薬物中毒治療施設に収監されていた>ことと無縁ではないように思う。あのウォール・オヴ・サウンドに魂を持っていかれそうになるたびに、待て待て、この巨大な音響を築いたフィル・スペクターは、とんでもない野郎だったんだぜ、とブレーキがかかるのだ。

その(生理的嫌悪にも似た)感情を、作品の力は凌駕できない。少なくとも私の場合は。おかした罪を贖うには、どれだけの時間がかかるのだろう。仮に次世代の人たちが彼らの作品を讃えたとしても、私がここで触れた作者たちを赦すことは生涯ないだろう。鰯 (Sardine)2021/07/17

岩下 啓亮
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Written by 岩下 啓亮

鰯です。熊本在住。イワシ(Sardine)とお呼びください。Mediumを日本語と英語の練習帖として活用しようと思う。Medium以外では、こちらを回遊しています。Twitter → @iwashi_dokuhaku はてなブログ『鰯の独白』→ kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

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