十年ほど前のことだ。私は行きつけのバーのカウンター席で、ひとり飲んでいた。隣に三人連れが来たので、ひとつズレて席を空けてあげた。
彼ら三人は和やかに話しはじめた。漏れ聞こえる話から想像すると、放送協会の地方局長、地元紙の文化部長、東京の出版社の編集委員だった。
話はやがて、政治の話になった。
「今日の答弁も余裕でしたね」
「野党がてんでだらしないからな。あれじゃ『アベ政治』は終わらせられまい」
「それにしても首相、予算委の途中で一度も席を立ちませんね」
「そりゃそうさ」年嵩のひとりがのけぞりながらうなずいた。「総理大臣たるもの、委員会の最中で、頻繁に中座してはならんよ」
「でもアベさん、おなかの具合どうなんでしょうね」
「それで一度は政権ほっぽり出したもんなあ」
もうひとりが天井を仰ぎながら自分の顎を撫でた。
「でもさ、ここだけの話……」
声を潜めつつ、あたりを見渡した。
「首相、おむつ穿いてるってよ」
「あーそれ、聞いたことあるぞオレも」
「首相がおむつを着用して国会に臨むのは、永田町の常識でしょうよ」
彼らふたりはあきらかに、私や他の客を意識しながら喋っていた。
そんなふうに地方の・初老のマスコミ人が盛りあがるさまを、東京の出版社の編集者はうなずきながらグラスを傾けていた。
「ま、大きな声じゃいえないがね。わが国は、おしめのとれない大きな子どもをトップに据えてんだ。おかしな話だよ」
「情けないね」
「情けないな。でも、誰も逆らえないのさ。あの大きな坊やには」
放談はとどまることを知らなかったが、私はだんだん気分が悪くなってきた。彼らの噂話いや与太話に、悪酔いしたかのように。
〈あんたらもマスメディアの端くれだったら、こんな酒場でひそひそ話してないで、それを報道するなり、記事を書くなりすりゃあいいのに。権力を小馬鹿にしながら、権力の傘下に収まり、権力維持の装置に自ら成り下がってやがる。あゝ情けない、情けなくってヘドが出そうだ〉
腹を立てた私は勘定をすませ、店をあとにした。カウンターごしに主人が「今日は悪かったな」と声には出さずに口を動かしていた。
先日の十時間にもおよぶフジテレビ経営陣の会見を観た私は、ふと十年前の夜の苦々しい記憶を思いだしていた。
それと同時に、こうも思った。
「きっとあの五人も、おむつ穿いているに違いないぞ」
鰯 (Sardine) 2025/01/30